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HISTORY&FUTURE

エンパイヤ自動車が切り拓く歴史と未来

「恒久不変 日々革新 ー常に変わらず、たえず新しくー」

エンパイヤ自動車の企業理念であり、まさに当社を体現する大切な言葉です。

激しく変化する時代を生き、今なお信頼を集める当社の歴史をご覧ください。

目次

01 エンパイヤ自動車の誕生

はじまりはアメリカ車のディーラーから。復興を経て、自動車産業の発展が加速。

02 大戦による混乱と再出発

自動車部品商社としてリスタート。舞台は全国各地、そして世界へ。

03 市場の隆盛と新領域の挑戦

モータリゼーションの到来で、高まるニーズにいち早く対応。

04 エンパイヤ自動車が切り拓くクルマの未来

激動の時代にも動じない。挑戦こそが“エンパイヤ・スピリット”。

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エンパイヤ自動車の誕生

はじまりはアメリカ車のディーラーから。

復興を経て、自動車産業の発展が加速。

明治16年、エンパイヤ自動車の創業者・柳田が誕生した。柳田は明治40年12月に東京へ単身上京。同44年には、銀座で電気商会を営み成功していた郷里の先輩のもとで、店員として働くことになる。さらなる事業発展を目指していたこの店舗では、自動車の取り扱いを開始。明治45年、アメリカ・デトロイトにあるエンパイヤ自動車会社製の乗用車『エンパイヤ号』5台と、貨物車の『クローエルハート号』1台を注文する。この頃、柳田は先輩から自動車部門を引き受ける形で独立を勧められていた。そこで柳田は意を決する。大正2年4月10日、日本橋呉服町に『エンパイヤ自動車商会』を創業。エンパイヤ自動車商会は開業後間もなく『エンパイヤ号』1台を販売し、ハイヤー業にも注力した。

そして大正4年、自動車補修部品事業にも進出。補修用部品の需要に目をつけ、アメリカ・フォード製自動車部品のほか、機械工具やタイヤなど多様な商品を販売した。販売先は関東一円を皮切りに、信越、北陸、東北、さらに北海道まで広がる。多くの地方有力店との取引を重ねながら厚い信頼関係を築き、次第にエンパイヤの知名度が高まった。

時は大正3年7月。世界36ヶ国を巻き込み、第一次世界大戦が勃発する。大戦の影響で、大正4年に日本の貿易収支は空前の輸出超過に。開業間もないエンパイヤ自動車商会では、特にハイヤー部が日増しに業績を伸ばした。大正12年4月にはフォード自動車と販売契約を締結する。しかし、同年9月1日に関東大震災が発生。当時、日本で最大の輸送機関である鉄道や市電を一挙に破壊してしまった。東京市電気局では「市電の全面的な早期復旧は容易でない」として、バスの経営を計画。震災からの復興作業には数多くのトラックが利用され、自動車の実用性が広く一般に認識された。

著しい発展を続ける日本の自動車産業。その一方で、自動車部品や付属品はすべて輸入に頼っていた。震災後の車両数増加により、輸入部品は極度に不足。自動車産業の発展の裏で、国産部品の必要性が高まっていく。

大戦による混乱と再出発

自動車部品商社としてリスタート。

舞台は全国各地、そして世界へ。

関東大震災後、人々の輸送はタクシー・ハイヤー・バス、そして貨物輸送はトラックが担う時代を迎えた。その中で、転機が訪れる。昭和6年9月の満州事変に続き、昭和7年1月には上海事変が勃発。国際情勢の先行きが不透明になり、アメリカは自動車や補修部品の対日輸出を抑制し始めた。輸入部品に依存していたエンパイヤ自動車商会は、国産部品の製造に着手。倉庫の片隅でフォード車の国産化部品を試作し、その試作品をもとに消耗部品を中心に開発を進めた。

その頃、軍用自動車の確保を目指す軍部は、国内自動車工業への注力を商工省に迫った。そして、昭和11年に『自動車製造事業法』が施行される。国内の自動車業界各社に軍用車両の部品補給体制を整える命令が下される中、エンパイヤ自動車商会はフォード車の車両部品製造を担当。様々な問題を乗り越え、部品製造のノウハウを身につけたエンパイヤ自動車商会は、昭和14年4月1日『エンパイヤ自動車株式会社』として新たなスタートを切った。

しかし、昭和14年9月に第二次世界大戦が勃発する。戦火が増す昭和20年3月9日、東京大空襲が発生。日本橋もろとも、エンパイヤ自動車本社は焼け野原と化した。同年8月15日、太平洋戦争が終結。続く9月、GHQ(連合軍総司令部)は極度に悪化した貨物輸送状況の解消を目指し、トラックの生産を許可した。しかし、日本国内では資材が不足しているうえ、自動車メーカーは戦時中からの生産体制の切り替えや老朽設備の補修に追われ、生産数は伸びない。

その状況下では、戦時に使用されたトラックや焼けた自動車の再生が頼りになった。そこで昭和21年の春、エンパイヤ自動車は部品商社としての再出発を決める。当社は戦前から、東京エリアにおいてフォード車のスーパーディーラーとして日本国内の同業者にその名が知れ渡っていた。ディーラーとしての信頼が強みとなり、エンパイヤ自動車は部品メーカーと直接手を結び全国的に販売網を展開。優良な部品を安定して確保し、積極的に販売へと乗り出した。

昭和22年8月には、GHQが制限付きながら民間貿易の再開を許可。初期型フォード車が根強く使われるブラジル・チリ・アルゼンチンなどの南米各国、中近東、東南アジアに向け、補修に必要な自動車部品の輸出を開始する。

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市場の隆盛と新領域の挑戦

モータリゼーションの到来で、

高まるニーズにいち早く対応。

昭和23年頃、エンパイヤ自動車は徐々に組織を拡充し現体制の原型を確立。昭和25年に入ると営業活動を関西エリアまで拡大し、地方への定期訪問体制を築いていく。同年6月には朝鮮戦争が勃発。皮肉にもこの動乱による特需が、低迷を続けていた日本経済に大きな活力を与えることになる。昭和27年10月に日本政府は車の国産化政策を打ち出し、自動車工業の育成に注力。国内自動車メーカー各社は外国自動車メーカーとの技術提携によりノウハウを学ぶとともに、自社内で技術を磨いて本格的に乗用車の国産化に着手した。その結果、我が国の自動車生産は昭和29年にフランスを抜いて世界第4位の自動車生産国に。

一方で、国産自動車部品メーカーもアメリカの部品メーカーと技術提携を積極的に推進。国により新たに導入された『優良自動車部品認定制度』に加え、朝鮮戦争による特需への対応をきっかけに、企業の自主努力により技術水準は徐々に向上した。乗用車の生産台数上昇、そして国産車の品質が向上し輸出増に転じた昭和40年代から、自動車補修部品の需要は相当に高い状態だった。大量供給を求められていた自動車補修部品のメーカーや取扱企業は、この頃多忙を極める毎日だったという。

部品商社として勢いを増すエンパイヤ自動車は全国展開を推進し、その端緒として昭和28年に札幌と名古屋に拠点を開設。昭和33年には、在庫機能と配送機能を兼ね備えた部品センターとして現在の本社所在地に八丁堀倉庫をオープンし、供給スピードの向上を図った。“即時供給体制と品揃え”の前線基地を整備することで、自動車補修部品市場における地位をいち早く確立していく。

昭和37年は、我が国の自動車産業にとって変革の年だった。この年を境に、個人用乗用車の台数が営業用乗用車の台数を上回ったのである。マイカー元年と言われる昭和41年には、日本の自動車生産台数2,060,000台のうち乗用車が740,000台に。昭和40年代後半に向けて自動車は日常生活の一部として不可欠な存在となっていった。そこで当社は、昭和51年4月にカー用品を取り扱う第2営業部を発足。主にホームセンター・量販店の市場開拓および商品供給に注力し、全国32ヵ所の販売網を通じて二次卸商・地域部品・用品商・カーショップなど3000社に商品を販売した。

日本各地の取引先から寄せられるニーズに応えるべく、当社は膨大な商品のリアルタイム在庫管理と即納体制を確立。昭和52年10月には大型電子計算機の導入を、昭和58年10月に大宮流通センターの全面的運用をそれぞれ開始する。

エンパイヤ自動車が切り拓くクルマの未来

激動の時代にも動じない。

挑戦こそが“エンパイヤ・スピリット”。

平成3年のバブル経済崩壊後、日本の経済は長いトンネルに突入。しかし、当社の売上高は平成4年3月期に初めて500億円を越え、平成9年3月期には598億円と順調に伸びていた。この時期の注力分野は、購入後の消耗品・交換品を指すアフターマーケット。日本国内のアフターマーケットの商流を黎明期から創り上げてきた当社にとって、この市場におけるタイヤやバッテリーなどの上位商品への注力は正に再挑戦であった。

平成10年代に入ると、消費者の購買意欲が減退するデフレスパイラルが加速。さらに消費者ニーズの多様化から、新車販売が減少する。車の保有台数が頭打ちとなる“自動車離れ”の状況下において、当社は平成15年・16年にかけてプライベートブランド商品の育成に取り組んだり、道交法改正によるチャイルドシートやハンズフリーフォンの特需にも対応するなど、柔軟に対応して販売増を実現した。

そして、平成25年4月10日。当社は創業100周年を迎えた。国際情勢に左右されながら、正に激動の時代を生き抜き発展を遂げた100年と言える。

しかし、地球環境への取り組みから構造が変わりゆく自動車業界は、今“100年に1度の変革期”にあると言われている。『Connect(IoT)』『Autonomous(自動運転)』『Shared&Service(カーシェアリング)』『Electric(EV|電動化)』から頭文字をとった“CASE”、自動車業界のトレンドワードだ。自動車部品は高機能化され、モジュール化が進んだ。今後、アフターマーケットのニーズも変化していくだろう。

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“激動の100年”を駆け抜けてきたエンパイヤ自動車は、その歴史の中で新たな市場を開拓し、業界のリーダーとして常に積極果敢に取り組んできた。豊富な仕入先や網羅的な販売ネットワークは、当社への信頼の証。頼れる仲間の存在が力になり、どんな時代にも対応できることが100年企業の強みだ。振り返れば、当社の歴史は創業時から挑戦の連続である。多くの先輩たちがそうしてきたように、新たな発想を取り入れながら新たな時代を前進していく。

これからも社会に必要とされる企業であるために。

私たちは“変わることを、変えない”。

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